この記事では、「饒舌」と「多弁」の違いを分かりやすく説明していきます。
「饒舌」とは?
「饒舌」はおしゃべりであるが故、口数が無駄に多いことを意味します。
よって「饒舌家」という言葉は、単におしゃべりで必要以上にしゃべろうとするだけで何かの専門家というのではなく、単なるおしゃべりなだけで専門家のお話と比較すると中身が無いといってもよく、どうでもよいことを述べているにすぎません。
「多弁」とは?
「多弁」は、余計なことを言うことでもあり、必要以上に多くを会話の中に放り込むことを意味します。
つまり、おしゃべりの人で余計なことを会話の中に放り込んでしまう人というのは、どちらかというと「多弁」になり、「饒舌」ではありません。
「饒舌」と「多弁」の違い
両者は同じ意味で「饒舌」も「多弁」もおしゃべりであるには違いなく、「多弁」は口数が多いという違いがありますが、それは「饒舌」も必要以上にしゃべるという意味があるのでいずれにしろ同じです。
「饒舌」の例文
・『饒舌家ほど、うっとうしいものは存在しない』
この例は、おしゃべりなものほどうっとうしいものはいないという例です。
つまり、専門家でもないのに単に長々とおしゃべりをするような人物はうっとうしいだけの存在であるという例になります。
・『彼女が嫌に饒舌にしゃべるので浮気を疑ってしまう』
この例は、普段あまりおしゃべりではない彼女が必要以上におしゃべりなので浮気を疑ったという例です。
この例は、よくある話で、彼女の様子がいつもと違うが故、怪しんでいます。
「多弁」の例文
・『多弁に物事を調べてみる』
この例はおしゃべりという意味で「多弁」を使用しているのではなく様々な方向から物事を調べるという意味と大目に物事を調べるという意味で使用しています。
よっておしゃべりという意味ではなく、物事を調べる方向性が多いという解釈になります。
・『部長の多弁なふるまいは正直疲れる』
この例は、部長のおしゃべりなふるまいは疲れるというものです。
つまり、部長は長話をする人物であることがうかがい知れます。
まとめ
「饒舌」と「多弁」については、両者を引っ付けた言葉に「饒舌多弁」というものがありまして、意味は必要以上に物を喋るという意味があり「饒舌」も「多弁」も実は同じ意味です。
ただ、「多弁」は解釈が多く存在しており、不必要なことを喋るのも「多弁」で様々な方向から物事を見るという意味も「多弁」で調べ物をする際、必要以上に多く情報を引き出すことも「多弁」というので「饒舌」と比較した場合様々な事柄に応用できます。
ただし、本来は両者ともに誉め言葉ではなく、どちらかというと必要以上にしゃべることを咎めるような意味になりますので人に向けて使用する場合注意が必要です。
一応「多弁」だけがプラスになる方向で物事を進めることが可能ですが、「饒舌」は誉め言葉になりませんので注意しましょう。