「皇道派」と「統制派」の違いとは?分かりやすく解釈

「皇道派」と「統制派」の違い言葉・カタカナ語・言語

昭和初期から陸軍が日本の政治における地位を拡大してゆくことになり、それが第二次世界大戦につながることにもなりました。

その陸軍での派閥争いで最も大きいのが「皇道派」「統制派」の争いでした。

それではこの「皇道派」「統制派」とは何でしょうか。

また、違いはどこにあったのでしょうか。

この記事では、「皇道派」「統制派」の違いを分かりやすく説明していきます。

「皇道派」とは?

「皇道派」とは?

「皇道派」とは、昭和初期の大日本帝国陸軍の大きな派閥の一つです。

「皇道」を理念とし、軍の力を伸ばして政党政治を打破することを目的としていました。

中心となるリーダーは荒木貞夫や真崎甚三郎で、1931年の荒木の陸軍大臣就任を発端として権力を握り、後に現れる「統制派」などの反対勢力を排除することで権力を拡大しました。

しかし、過激な勢力が1936年に起こした二・二六事件(皇道派の青年将校らが当時の内閣の閣僚を襲撃したクーデター未遂事件)を契機としてその勢力を「統制派」に譲ることになりました。

「統制派」とは?

「統制派」とは?

「統制派」とは、前述の「皇道派」と同じく昭和初期の大日本敵国陸軍の派閥の一つでした。

当初は「反皇道派」として、過激な行動も辞さない機運はありましたが後に、合法的な政府の改革を目指すようになりまりました。

リーダーというべき人物はいませんでしたが、永田鉄山や後の総理大臣である東條英機が中心人物でした。

前述の二・二六事件の後始末によって権力を握り、そのまま第二次世界大戦に進んでゆくことになりました。

「皇道派」と「統制派」の違い

「皇道派」と「統制派」の違い

「皇道派」「統制派」の違いを、分かりやすく解説します。

この2つは、昭和初期の大日本帝国における陸軍の派閥であり、それぞれ当時の政治に対する不満を持つ多くのメンバーが参加して、日本全体の政治に大きな影響力を持つようになった組織という意味では同じようなものとも言えます。

根本的違いといては「皇道派」が、「皇軍や皇道という考え方を中心にした国家の改造や転覆を狙っていた」のに対して、「統制派」「あくまで陸軍大臣の元に合法的に改革を行う」ことを主眼としていたという部分です。

この違いが結局は二・二六事件の失敗による「皇道派」の衰退に繋がりました。

「皇道派」の例文

「皇道派」の例文

「皇道派」の例文は以下のようになります。

・『皇道派の当初の目的は宇垣一派の排斥にありました』
・『皇道派の考え方には武力による政府の変革も視野に入っていました』

「統制派」の例文

「統制派」の例文

「統制派」の例文は以下のようになります。

・『統制派の最終的な代表が総理大臣になった東條英機でした』
・『統制派も当初は、非合法な活動を厭わない方向性を持っていましたが、後に合法活動に注力するようになりました』

まとめ

まとめ

この記事では、「皇道派」「統制派」の違いを、解説してきました。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の間で起こったこの2つの派閥の争いは結局、二・二六事件によって終結を迎え、その後は戦争へとつき進むことになりました。

この事件自体が、そもそも日本の政党政治に対する軍部の不満から起こったもので、失敗にもかかわらずその影響は軍部大臣現役武官制を認めさせることになり、これが戦争への引き金になったとも言えます。