宗教の中で『信じる』という行為についてよく聞かれる言葉が2つありますが、この違いは意外と知られていません。
この記事では「信仰」と「信心」の違いを分かりやすく説明していきます。
「信仰」とは
これは『神様や仏を信じ敬いその教えにしたがおうとすること。
その対象を絶対的なものとして信じ込むこと』を表す言葉です。
どちらかというとキリスト教の様な一神教に多い考え方であり、ある自分以上の存在に対して敬いの念を抱き、その教えを唯一絶対のものと信じて従うことという強い意味を持っている言葉です。
この言葉のポイントは『絶対的な』という部分にあります。
ですので、宗教意外にもある特定の権威やブランド、主義などに心酔してそれを強く信じて疑わない時にも『信仰』という言葉を使います。
例えば『彼女はブランド信仰が強い』というと、本質というよりはブランドの持つ名前の価値を盲目的に信じていることを少し懸念するような意味合いで使われています。
「信心」とは
これは『神仏を信仰する心を持ち、その加護や救済を信じて祈ること』を指す言葉です。
ポイントは『祈る』という部分にあります。
どちらかというと信じるという境地を超えて神仏に対して疑うことをせずに自らを任せるという行動、つまり祈りを通して『信心』という言葉の意味になります。
非常に仏教が重要視する『無疑』の境地の言葉であり、ただ信じているというだけでは『信心』の境地に行くことはできません。
『無疑』とは一見すると盲目的に信じていることと考えられがちではありますが、実際は違い、どちらかというと信じている状態を受け入れるという心を開いている状態を示します。
この概念はとても大切で、ここから外の情報を自分の心と一つにしていくという能動的で自発的な意味を持っている言葉です。
「信仰」と「信心」の違い
この二つは『絶対的なものとして強く信じている』か『心を開き、教えを受け入れて自分の核とするか』かという違いではっきりと分けることができます。
宗教的にもはっきりと違いがあり、キリスト教などの一神教では『信仰』を使いますが、仏教にこの様な考えはなく、『信心』があるべき姿であるとされています。
そのような意味では『信仰』は『絶対的なものに対して自分の心を寄せる』という外に向けてベクトルが働いているのである意味で強制的に『信仰』を持たせることが可能なのに対して、『信心』は『心を開いて受け入れる』という内に向けてのベクトルが働く、自分から進んで行わないとできない行為であるとも言えるのではないでしょうか。
まとめ
如何でしたでしょうか。
かなり混同されてしまう『信仰』と『信心』ですが、実は明確に宗教的な言葉としてみると大きく違いがあるのは意外な点ではないでしょうか。
決して『信仰』と『信心』のどちらかが優れているという意味ではなく、宗教としての『信じ方』の違いが根本にあります。
是非この機会に自分の考え方に近い宗教について調べてみたり、見つめなおしてみるのもいいかもしれません。