この記事では、「達観」と「諦め」の違いを分かりやすく説明していきます。
「達観」とは?
「達観」とは、小さいことにはこだわらず、物事の本質を見通すことを言います。
また世の中のことにこだわりもなく、悟りの心境に達していることといった意味合いもあります。
困ったことや嫌なことがあると通常の人はイライラしたり、悲しんだり、怒ったりします。
しかし「達観」している人は、平常心でいられるわけです。
そのような様子を「彼は達観している」「若いのに人生を達観する」などと言い表すことができます。
「諦め」とは?
「諦め」とは、望んでいたことが実現するのは不可能だと認める、望みを捨てる、きっぱりと思い切ることなどを言います。
実現不可能だからと、ある望みを捨てるだけであって、必ずしもそれを納得しているというわけではありません。
気持ち的に残念、怒り、悲しみ、空しさとネガティブになっていることもあるのです。
「諦めが肝心」とは言いますが「諦めがつかない」という言い方もあります。
前後にある言葉で意味合いは違ってきますので、注意してください。
「達観」と「諦め」の違い
「達観」と「諦め」の違いを、分かりやすく解説します。
この二つの言葉は似た印象がありますが、意味合いがまったく違いますので混同はできません。
意味合いをしっかり理解していきましょう。
「達観」とは小さいことにこだわらず、物事の本質を見通しているという意味になります。
ある意味「悟りの心境」に達しているということですから、心は安定していると解釈して差し支えないでしょう。
一方の「諦め」とは何かを望んでいたけれども、それが無理だと理解して望むことをやめるという意味になります。
「諦めがつく」「諦めた」と言えばどこかさっぱりしたような印象を与えますが、納得の上なのかどうかまでは実際はわかりません。
ただ、行動としては「やめる」ということになります。
簡単にまとめますと「達観とは小さいことにこだわらず物事の本質を見通すこと、悟りの心境に達すること、全体を見渡すこと」「諦めとは思い切ること、断念すること」となります。
まったく違う意味であることが理解できたのではないでしょうか。
ちなみに「諦め」はさっぱりしている、執念深くないといったイメージがあります。
「達観」は執着しない、物事をよくわかっているというイメージがある反面、どこか覇気がないような寂しい印象も与えます。
若い人の場合は、「諦め」が悪い方が、元気や根性があるといった印象になることもあるでしょう。
人の様子を言い表す際、「達観」なのか「諦め」なのか、内容を確かめて使うようにしてください。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「達観」と「諦め」の違いを説明しました。
「人生を達観する」「諦めがつかない」など、日常会話でもよく使われる言葉ですが、意味が違いますので混同しないようにしてください。
それぞれの言葉の意味を正しく理解して使分けていきましょう。