「ねずみ小僧」と「石川五右衛門」はどちらも古い時代の泥棒のことですが、活動していた時期や地域が異なります。
この記事では、「ねずみ小僧」と「石川五右衛門」の違いを分かりやすく説明していきます。
「ねずみ小僧」とは?
「ねずみ小僧」は「ねずみこぞう」と読む人名で、江戸時代の後半に存在した盗賊のことを指します。
「鼠小僧次郎吉」とも呼ばれ、ねずみのように動作がすばしこかったことが名前の由来となりました。
大名屋敷のみをターゲットに盗みに入り、盗難品を貧しい人々に配ったとされ、後世になって義賊として小説やテレビドラマになどに取り上げられるようになりました。
「石川五右衛門」とは?
「石川五右衛門」は「いしかわごえもん」と読む人名で、安土桃山時代に存在したと伝えられる盗賊のことを意味します。
京都三条河原で子息と共に「釜茹での刑」に処されたことや、「豊臣秀吉の命を狙った」という噂が広まったことから伝説化し、歌舞伎や浄瑠璃などの題材に使用されるようになりました。
「ねずみ小僧」と「石川五右衛門」の違い
「ねずみ小僧」と「石川五右衛門」はどちらも古い時代に活動したとされる泥棒ですが、時代や地域などに違いがあります。
「ねずみ小僧」は江戸時代後期に存在した人物で、生まれは現在の日本橋人形町、もともとは鳶人足として働いていましたが博打を始めるようになり、その資金調達の手段として盗難をおこなうようになりました。
文学やテレビドラマなどでは「ねずみ小僧」が盗んだ金品を貧しい人々にばら撒くシーンがありますが、現在では義賊であったことはほぼ否定されており、博打の資金調達や異性関係、飲酒などのために盗みを働いていたと考えられています。
ただし「大名屋敷を中心に盗みに入っていた」という点は史実だったようで、一ツ橋家や尾張家、紀伊家、水戸家などの大名屋敷をターゲットにしていたと伝わっています。
また、一度に大金を盗まず金がなくなるまで次の盗みに入らなかったことや、普段は慎ましい生活を送っていたという律儀な一面があったことから中々足が付かず、10年ものあいだ盗みを繰り返していました。
天保3年(1832年)に日本橋浜町で捕まり、市中引き回しの上での獄門に処せられます。
一方、「石川五右衛門」は安土桃山時代に存在したといわれている人物で、出生については定かでなく、一説によると生まれは遠州(現在の静岡県浜松)で、真田八郎を名乗ったのちに石川五右衛門に改名したと伝えられているほか、三好氏の家臣であった石川明石の子どもであったという説もあります。
「絶景かな、絶景かな」のセリフでも有名な歌舞伎の「楼門五三桐」や浄瑠璃の「傾城吉岡染」などに登場し、「石川五右衛門といえば天下の大泥棒」というイメージがありますが、盗みの詳細についてはほとんど不明とされており、史実に残されているエピソードとしては文禄3年(1594年)に京都の三条河原で「釜茹での刑」に処せられたことのみと考えられています。
なお、上記の刑に「豊臣秀吉の命を狙おうとした」という噂が加わったことからポピュラーかつ伝説的な存在になったと伝えられています。
まとめ
「ねずみ小僧」と「石川五右衛門」は活動していた時代や地域に違いがありますが、のちに伝説化して「権力に立ち向かう英雄のような存在」になったという共通点があります。
両者について正しく認識して、歴史上の人物に関する知識をより深めてください。