この記事では、「一蓮托生」と「連帯責任」の違いを分かりやすく説明していきます。
「一蓮托生」とは?
仏教の言葉で、よい行いをしたものは死後に極楽浄土に生まれ、同じ蓮の花の上に身をよせるという意味です。
また、結果がよい・悪いにかかわらず、行動や運命を一緒にするという意味にもなります。
「一蓮」とは、ひとつの蓮を意味しています。
蓮とは植物のハスに花のことです。
ハスは泥の中から茎を伸ばし花を咲かせます。
その姿が清さの象徴や仏の慈悲の象徴とされています。
「托生」には、身をまかすという意味があります。
もともとは仏教の言葉ですが、結果がどうであれ、行動や運命を共にするという意味もあります。
「一蓮托生」の使い方
日常的には仏教用語としてよりも、行動や運命を一緒にするという意味で使用されています。
結果がよいときには一緒に行動をするけれど、悪いときには離れて行ってしまう人がいます。
こういったさまを指しているのではなく、結果がよいときにも悪いときにも、行動や運命を共にすることを指しています。
「連帯責任」とは?
同じ目的で行動にかかわったり、同じ条件や資格でかかわったりしているもの同士が、共に行動や結果の責任を引き受けることです。
集団の中で一人が失敗したとき、そのものだけでなく、一緒に行動していた他のものも共に責任を引き受けることをいいます。
部活動の野球のことで考えてみます。
中学・高校の部活動の野球は指導が厳しいことが珍しくなく、練習に数分遅刻をしただけでも厳しく叱られます。
遅刻をした罰として、ランニングやスクワットなどを顧問から命じられることもあります。
野球はチームスポーツです。
一人が遅刻をしてもチームとしての責任を問われ、遅刻をした人だけでなく、チーム全員が一緒に走らされたり、スクワットをやらされたりします。
このさまが「連帯責任」です。
一人の失敗を行動を同じにするものも一緒に引き受けています。
「連帯責任」の使い方
目的を同じにするものや、同じ資格や条件でかかわっているものが、一人の失敗の責任を一緒に引き受けることを指して使用します。
集団の中で一人だけが責任を負うことでなく、他の者も一緒に負うことをいいます。
集団に対して使われる言葉です。
「一蓮托生」と「連帯責任」の違い
どちらの言葉にも「共にする」という意味合いがありますが、何を共にするのかという点に違いがあります。
前者は、行動や運命を共にすることです。
仏教の言葉でもあります。
後者は責任を共に負うことです。
「一蓮托生」の例文
・『一蓮托生といえるだろう』
・『一蓮托生の関係』
・『親と子が一蓮托生だ』
「連帯責任」の例文
・『連帯責任の意識を持たせる』
・『連帯責任で掃除をさせられる』
・『連帯責任で迷惑をかけてしまった』
まとめ
どちらの言葉も「共にする」という意味合いがありますが、何を共にするのかという点に違いがあります。