「達観」と「諦観」の違いとは?分かりやすく解釈

「達観」と「諦観」の違い言葉・カタカナ語・言語

この記事では、「達観」「諦観」の違いを分かりやすく説明していきます。

似た雰囲気を持つ2つの言葉には、どのような意味と違いがあるでしょうか。

「達観」とは?

「達観」とは?

「達観」という言葉には、どのような意味があるでしょうか。

「達観」「たっかん」と読みます。

「達観」は、「広く大きな見通しを持っていること」という意味があります。

遠い将来の情勢などを見通せるような、広い見通しを持っていると感じたときに、「達観」という言葉を使います。

例えば、時勢を見通して発言する人は、「時勢を達観して発言できる人」などと表現できます。

次に「達観」には「目先のことや細かなことに惑わされず、真理や道理を悟ること」という意味があります。

真理を悟っているように見える人は「達観した人」と呼ばれます。

また、困った状況にいるはずなのに、道理を悟っているために、平気なそぶりをしている人を見たとき、「困難な状況にいても、達観しているように見える」などという文章を作ることができます。

他にも、「修業を続けて、達観へ到達したい」「この年になっても、達観は程遠い」などという文章にできます。

「諦観」とは?

「諦観」とは?

「諦観」という言葉には、どのような意味があるでしょうか。

「諦観」「ていかん」と読みます。

「諦観」は、「本質をはっきりと見極めること」という意味があります。

世の中の流れを眺めて、その中から本質をハッキリ見極めるような場合、「時勢を諦観する」などという文章にできます。

また「諦観」には「あきらめ、悟って超然とすること」という意味があります。

ちなみに「超然(ちょうぜん)」には、「物事にこだわらず、平然としている様子。

また世俗に関与しない様子」
という意味があります。

たとえ、悲しい出来事があっても、そのようなものだと悟り、平然としている人は、「人生に対する諦観があるため、悲しさに振り回されたりしない人」などと表現できます。

「達観」と「諦観」の違い

「達観」と「諦観」の違い

「達観」「諦観」の違いを、分かりやすく解説します。

「達観」には「目先のことや細かなことに惑わされず、真理や道理を悟ること」という意味があります。

一方で「諦観」には「あきらめ、悟って超然とすること」という意味があります。

どちらも、真理や道理を悟り、目の前のことに右往左往しないという意味がある、言葉という共通点があります。

ただし、「達観」と比較したとき「諦観」には「諦めの境地」が見られます。

「達観」とは違い「諦観」には、「世の中はどうせこのようなものだ」というような、諦めがあります。

このように、「達過」「諦観」は、とても似た意味を持ちますが、諦めているかどうかという違いがあることが分かりました。

まとめ

まとめ

「達観」「諦観」の違いについて見てきました。

2つの言葉は、とてもよく似ていますが、確かな違いもありました。

2つの言葉の意味の違いを知ることで、混同せずに使い分けることができるようになりそうです。