この記事では、「懸念」と「心配」の違いを分かりやすく説明していきます。
「懸念」とは?
「懸念」は、意味においては「心配」と同じで、心に気がかりができることを意味しますが、「心配」と異なる点は公の場において意思を表明する場合に使用した場合硬い印象を与える点が「懸念」です。
よって、言い方次第では、「戦争に言った息子のことを懸念する」と公で言い出せば、個人の感情を抜きにして、一般の方が賛同するであろう考えを述べているにすぎません。
逆に、「戦争に言った息子を心配する」も、公で言った場合はどちらかというと「心配」は、私情が挟めるので無事に帰ってくるかどうかを不安に思い気がかりだと言っているのです。
「心配」とは?
「心配」は気がかりに思うことで、「懸念」と同じなんですが、「懸念」は、個人の考えを示すことはあまりありません。
逆に、「心配」は、個人で対象を気に病むことと、公の前に出てきて対象を気に病んでいることを周囲に伝えるために使用可能で、言ってしまえば、気に病むという行為を私情を挟んで周囲に公言できるのです。
例を挙げれば、「息子の成績を心配している」と周囲に公言すれば、これは、親心から息子の成績を気に病んでおり、これを、「息子の成績を懸念する」といえば、これは他人行儀で事実のみを述べ気に病んでいると表明しているようなもので形式だけ気に病んでいると述べているようなものになります。
「懸念」と「心配」の違い
両者の違いは、気に病むという行為に私情を挟めるかどうかです。
「懸念」は私情を挟めませんが、「心配」は私情を挟み込めます。
「懸念」の例文
・『息子の成績では、東大への合格は不可能であると懸念する』
この例は、事実から見て私情抜きで東大への合格について気に病むという例です。
つまり、成績が悪いという事実から東大への合格はおそらく無理であろうと気に病んでいるわけです。
「心配」の例文
・『息子の成績では東大への合格は無理だと心配する
この例は、私情を挟み、息子の成績ではまず、東大への合格は無理だろうなという意味になります。
しかし、私情を挟んで不可能だと述べているだけですので、ひょっとしたら合格できると考えるのも許されており、このケースでは、ひょっとしたらという部分が見て取れます。
まとめ
両者の違いは、受験などに合格することだと考えるとわかりやすいです。
たとえば、「東大への合格について懸念する」とあれば、これは私情を挟まず、事実として不可能だと述べているのですが、「東大への合格について心配する」と記せば、これは私情を挟んで気に病むことが許されていますので絶対に不可能だと言ってません。
逆を返せば、「懸念」は、公の場において私情を挟まず事実を述べることが好ましく、公の場で私情が挟まれている場合、それは「心配する」という部類になります。
よって両者は使い分けが可能で、公の場において私情を挟まない場合、「懸念」という言葉を使用すれば硬い印象になりますが、私情が含まれていないと解釈され、「心配する」といえば、私情を挟み気に病んでいるなと使い分けが可能です。