この記事では、「諦観」と「諦念」の違いを分かりやすく説明していきます。
「諦観」とは?
諦観とは、一般的にていかんという読み方をすべき言葉です。
文字で表記されているのを見れば分かる様に、明らかにするとかあきらめるといった意味を持つ諦の文字に、物事を目にして意味や本質をとらえるとか考える等の意味を持つ観の字を付け足す事で成立している言葉となっています。
そのため諦観とは、本質を明確に見極めるや悟って超然とする、といった意味を持っているのです。
「諦観」の使い方
諦観は、仏教用語として真理を明確にする、という意味で使用されていました。
というのも元々 諦の字はあきらめる、という意味ではなく、明らかにするという意味で使用されていたからです。
ですが徐々にあきらめるという意味合いが強くなった事で、諦観は物事の本質をきちんと見極めた上で諦める、という意味で使用される様になりました。
しかも元が仏教用語で堅い表現であるため、使い方として話し言葉ではなく、書き言葉として用いられる事が多いです。
「諦念」とは?
諦念とは、ていねんという読み方をする言葉となっています。
漢字で表記されているのを見れば分かる様に、あきらめるとか明確にするという意味がある諦に、思いを込めるとか心にとどめるといった意味を持つ念の字を足す事で生まれた言葉です。
だからこそ諦念は、道理を悟る気持ちやあきらめの気持ちを表す言葉となっています。
「諦念」の使い方
諦念は元々、仏教用語として使用されていた言葉です。
なので畏まった様な表現であるため日常会話ではなく、書き言葉として使われる事が多かったりします。
更に具体的には、迷いを取り去った上で諦めの境地に達するという気持ちを、表現する際に使われる事が多い言葉です。
「諦観」と「諦念」の違い
諦観と諦念はどちらも元は仏教用語であり、日常的には余り見聞きする事がない言葉同士です。
お陰で混同され易く、使い分けの際に迷う人も少なくありません。
もっとも2つの言葉は文字を比較すれば分かる様に、2文字目が観と念という明確な違いがあり、その事で表す意味合いにも違いが生じています。
諦観の方は、本質を見極めた上で諦めの境地に達するという意味です。
一方の諦念は、迷いが消えた上で諦めの境地に達する、という気持ちを表す言葉となっています。
「諦観」の例文
・『選手としての能力の限界を諦観し、彼は引退を決意した』
・『病状を明確に諦観した事で、彼女は積極的な治療をしない事を決めた』
「諦念」の例文
・『諦念の心境になれた事で、私は逆に結果を残せる様になった』
・『こんな事であたふたしている様では、諦念の心境になれたとは言えません』
まとめ
2つの言葉は、どちらも仏教用語として使われているので使い分けは少しややこしい部分があります。
ですが観と念という使用されている文字の違いから、表す言葉の意味合いにも違いがあるのです。
諦観の方は、真理を見極めた上で諦めの境地に達するという意味を示します。
逆に諦念の方は諦めの境地に達する、という心境面を表現すべき言葉です。