「手弁当」と「ただ働き」の違いとは?分かりやすく解釈

「手弁当」と「ただ働き」の違い言葉・カタカナ語・言語

「手弁当」「ただ働き」は、似ているようで少し違う意味になります。

「手弁当」とは?

「手弁当」とは?

「手弁当」とは、何かに参加する際に、往復の交通費や飲食代などのその為に必要となる費用を全て自分で支払うことです。

「来てくれてもいいけど、手弁当になるよ?」などと使う言葉で、日当などの報酬に当たるものおろか、交通費や食事代なども一切出ないと表現したい時に使ってください。

ボランティア活動においてよく使われる言葉となっており、この表現が使われた場合には、作業が数日に及んだ時の宿泊する場所も自分で確保しなければいけません。

このような「全て持ち出」しという解釈で用いられる言葉なので、「交通費くらいはもらえると思ったが、全くの手弁当だった」のように、後からそれだったと使われることも多いです。

「ただ働き」とは?

「ただ働き」とは?

「ただ働き」は、文字通り、労働に相当することを行ったにも関わらず、日当などの報酬に当たるものが何もないと表す為に使います。

応用として、多少はあったものの、とても行った内容に相当するとは思えないと思った時に「ただ働きみたいなものだった」と使うこともできます。

よって、先の「手弁当」も、この「ただ働き」の1つになります。

それに加えて、交通費などの出てもおかしくない(それくらいは出るべき)ものさえ出ないのが「手弁当」です。

「手弁当」と「ただ働き」の違い

「手弁当」と「ただ働き」の違い

「手弁当」となると、一切何も期待することはできませんが、「ただ働き」の場合は、交通費や食事代程度は出る(実際に出た)時に使う言葉です。

一口にボランティアと言っても、「手弁当」の場合だけでなく、「ただ働き」なのは当然ながら、交通費くらいは出るということも多いです。

参考までに、東京五輪におけるボランティアは、そのような形となっています。

まとめ

まとめ

「手弁当」「ただ働き」は、日当などの報酬がないという意味では同じですが、それ以外に一切何の費用も出ない(物質的なものも含みます)のが「手弁当」だと覚えておきましょう。